
私は大阪府の南部、松原市で3歳から21歳まで過ごしました。
その後、大学4回生のときに羽曳野市に引越しました。
茨木市には結婚を機に住み始めました。
理由は夫が学生時代に過ごした街ということと、通勤時間が30分ということ。
「茨木市に住むこと」がその後の自分の人生に大きく関わってくるなんて予想もしていませんでした。
お恥ずかしいですが・・・

私は大学卒業後、メーカーの総務部門で労務管理の仕事に就きました。
残業する日も多く、また休日も遊びに出かけることが多かったので、
家には寝に帰るだけでした。
ご近所付き合いはしていませんでした。会社に行けば同僚がいるし、遊ぶなら学生時代の友人もいる。だから近所に知り合いがいなくても困ることはなかったのです。

そんな生活に変化が起きました。「こどもができた」のです。出産を機に7年間勤めた会社を退職しました。当時は育児休業休暇を1年間取ることができましたが、利用している社員は少なく「結婚後は勤めても出産を機に退職する」という空気が会社にはあったように思います。
私も「当たり前の選択」として出産退職を選びました。
天使のような微笑です。

出産後1か月ほどして、それまですごしていた実家から、茨木市へ戻ってきました。そこから一日中家にいる生活が始まりました。家には生後まもない子どもと二人きり。本当に「孤独感」を感じました。季節が冬ということ、ちょうど引越しと重なったことなどあったのですが、夫が帰ってくるまで一日中だれともしゃべらない日々が続き、なんだか社会から取り残された気分でした。
私のような思いをしている人はきっと多いんじゃないかなぁと思います。私が出産した当時は育児サークルの情報なんかは本当に耳に入ってきませんでしたし、市役所からそういう資料をもらった記憶はありません。情報があっただけでも安心したのでは…と今になって思います。

そんな「孤独感」から少し解放された理由の一つは仕事をみつけたことです。
こどもが6か月の頃に在宅の仕事を見つけ、家を仕事場として働き始めました。
新聞の求人欄で見つけたのですが、「パソコンも貸します!」という高条件だったので「ん?あやしい…」と夫は思ったらしく、私には内緒で面接を受ける前にその会社を探りにいったそうです。
結果、きちんとした会社でした(疑ってごめんなさい、社長…)。

こどもが2歳半のとき、在宅で働いていた会社で契約社員として働かないか、との話を頂ました。たまたま家の近くにある公立保育所の2歳児クラスに空きがあり、そのチャンスを生かすことができました。2000年5月のことです。ちなみにこれが夏くらいの話であれば、保育所には空きがありませんでした。
入所当初、保育所へ送っていくと我が子は門にしがみついてビービー泣いていました。そんな姿に後ろ髪引かれつつ会社に向かっていました。また月に1度は熱を出し、そのたびに仕事を休んでいました。
私の勤めていた会社は、社長と次長が夫婦のファミリー会社です。次長は8か月のこどもを片脇に抱えながら仕事をこなしていた、というバイタリティーの持ち主。育児をしながら働いている私たちにはとても理解がありました。そんなわけで「こどもが病気」で仕事を休むことでイヤな思いをしたことは一度もありませんでした。
お盆が過ぎた頃には我が子も保育所生活に慣れてきました。好きな先生もできました。
保育所に居場所を見つけたこどもを見てうれしいな、と思う反面、あっけなく「バイバ〜イ!」とされるとなんだか淋しい気持ちにもなり…。親って勝手ですよね。
運動会の親子競技

茨木市の公立保育所には「保護者会」があります。こどもたちのよりよい環境づくりのために、保護者そして保育士の先生たちが協力しましょう!という主旨の会です。
保護者全員で役割分担をし、毎年何かの係を受け持つことになっています。
3歳児クラスになったとき、「今のうちにクラス役員をしていたほうがラクらしい…年長さんになったら大変なんだって。」という友人の一言で、その友人と一緒に3歳児クラスの役員になりました。学校でいえば学級委員みたいなものです。しかしこの手のウワサ、学校に行ってもありますね。PTAのお仕事は低学年でやっていたほうがラクらしい…と。
クラス役員は各クラスから3〜5名選出され、毎月1回開かれる役員会に参加します。
保護者会の会長や副会長、会計などはクラス役員の中から決める仕組みになっており、私はジャンケンに負けてなんと会長になってしまいました。まさしく晴天のヘキレキ、とっても憂うつでした。保育所に入って1年もたっていないのに…という思いでいっぱいでした。
しかし、今思えばこの出来事が私が議員にチャレンジする2つめの大きなきっかけになりました。友人に感謝です?!

結局保護者会の会長は2年間やりました。
1年目はまず現状を知ることで精一杯でした。
現状を知っていく中で「なんで?」と思うことが色々出てきました。
たとえば保護者全員何かの係を受け持ちますが、当時通っていた保育所ではその基準は「こどもの数」。こどもが3人保育所に通っていると、係を3つしないといけないのです。これってとっても大変なことなんじゃないか?なんでこどもの数にあわせて係を受け持たないといけないの?という疑問をもちました。
そして「変えたい!」と思ったのです。こどもの数ではなく、1世帯1係にした方がいいんじゃない?と。2年目はその思いを実践しました。1年目は「現状を知る」、そして2年目は「現状の課題点を変える」年になりました。役員会で議論したり、先生と議論したり…楽しい保護者会活動でした。
保護者の有志で「ほごしゃーズ」を結成し、発表会で「ソーラン節」を披露しました。ほごしゃーズの主役は「保護者」。お互いを「○○ちゃんのママ(パパ)」ではなく、ニックネームで呼びあうことにしました。今でもそれは続いています。さまざまな活動を通じて一生の宝物ともいえる仲間ができました。
保育所の発表会で保護者の有志で
ソーラン節を披露

こどもが5歳児クラス、幼稚園でいえば年長さんクラスのとき、私は茨木市の15ヶ所の公立保育所保護者会で構成している「茨木市公立保育所保護者会連絡会(略して公保連)」の会長になりました。
公保連の会議には保護者会の会長時代に参加していました。私は「公保連」がキライでした。「夜の会議が多い」「講演会などのイベントに動員をかける」「会議で発言してもあんまり聞く耳をもってくれない」などの不満をもっていました。
しかしそれは公保連を外側からみた考えであって「文句・愚痴」を言っているだけかもしれない。一度自分も中に入ってやってみようと思いました。やるからには一生懸命やったつもりです。でも私の中には「?」が残っています。
「公保連ってなに?」「他の団体とのおつきあいで一年がすぎてしまう」「引継ぎがなってない」などなど。そして問題が間近に迫ってきている「公立保育所の民営化」については役員全員が「民営化ってなに?」という状況でした。
児童福祉課に新役員であいさつに行ったとき、「あなたたちにはわからないだろうけど保育情勢も一般財源化やいろいろあって大変なのよ。」と言われました。確かにそのときはわからなかった、でもその一言がとっても悔しかったんです。自分なりに本を読んだり他市の状況を調べたりしました。
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